仏教は、信のみによく入る

※フリートークねた
「仏教とは、信じることが大事」という言葉があります。
あとは、「その広さと深さを知っても、疑ってはならない。恐れてはならない。」とかね。

現代からしても、「信じる者」は救われるという言葉もありますね。
実際、「信じて努力して」自分の考えもしない能力を開花させた人も多くいますね。

そして、仏教をはじめに説いたお釈迦様は「信」が大事であることを言っています。
その時代の人の「機根」を整えるために、低い教えから高い教えにどんどんシフトしていく。

二乗の者、自分がまずは幸せになりたい。そんな人には、その人の望みが叶う教え、修行を教えて。

菩薩を目指す者、それにはそれにあった教えを説いて人々を導いていきました。

けれど、「それ」は、「その人用の教え」すべてに通ずるものではありません。デコボコな教えです。

そうして、下地に四十余年ほどかけて整えて、真実の教えにシフトしていきました。

「いままでの教えは方便です、これからは純円の教え、すべての人を救う教えの「法華経」を説いていきますから、それまでの教えは忘れてください」と。

さまざまな、「仮」の如来の話や、空想の話などをしてきましたが、それらを信じて修行してきた人からもビックリだったかもしれません。

「いや、そんなの聞いてないし」
「自分、今のままで願いも叶ったから十分だし」

と思ったかどうかは分かりませんが、増上慢の人々は離れていきました。
そして、残った人に法華経を説くわけです。

これは、お釈迦様も幾分か計算があったのではと思います。
法華経の後半などは、今の時代の「末法」の予証もありますし、大きな「何か」が見えていたのでは、と思います。

自分も、「これを修行しなさい」と言われて頑張って、しばらくして、「いままでのを忘れて、今度からこっちをやりなさい」と言われたら素直に出来るか不安なものです。

そこに「信」が重要になってくるわけですね。

釈迦の弟子の一人である、舎利弗(しゃりほつ)も、
「わたしたちは身命をとして、その真実の教えを信受いたします。どうか説いてください」

というのですが一回で答えず、舎利弗は三回ほどお願いしてます。振るいにかけるが、ごとくですね。

「信じること」は「悟る」ことという自分の菩提寺のご住職の言葉もあります。
そして、「続けること」もまた大変ですね。

自分の仏道修行も6年ほどかと思いますが、その中でもお寺で見なくなった人もたくさんいます。

もっと長くやっている人はたくさん見てきていると思います。
本人の問題だし、いろいろ言うのはね。

そんな話を先日、天神・春吉にあります「立正寺」さんにて友人を連れて話をしていました。
とても素敵なお寺です。ほかにも、博多駅や糸島など、東区にもありますね。
正しい仏様の姿を見ながら、いろんなお話が出来たらと思います。
それをふまえて、あとは、どう生きるかはその人が「選択」してもらえたらいいですね。