無神論では、、、

※正しい宗教と信仰
・無神論ではなぜいけないのか

無神論とは、信仰の対象となる神や仏などの絶対的存在の事実と可能性を否定する考えです。

無神論といっても、信用とか信頼などの日常生活上の心理作用まで否定するのではなく、あくまで宗教的な絶対者、あるいは絶対力の存在を認めないとしている人がいるようです。

また、一応、他人の信仰を認めて、「神や仏は、いると思う人にとっては存在するが、いないと思う人には存在しないものだ」
などと唯心的な主張をする人もいます。

たしかに、ほとんどの宗教で説く神や仏は現実に「この世に出現したこともなく」、
因果の道理に外れた「空想の産物」ですから、無神論を唱えることも無理からぬことかもしれません。

これに関しておもしろい話があります。

あるキリスト教の教会で、全知全能の神について語り終えた牧師にむかって、一人の少年が尋ねました。

「なんでも可能な全知全能の神様は、自分で持ち上げられない石を造れますか?」と。

牧師は返答に窮して口を閉ざしてしまったということです。

この話は、現実を離れ「空想によって生み出された神」が、いかに矛盾に満ちたものであるかを短い中に鋭く指摘しています。

しかし、だからといって無神論が正しいということではありません。

無神論を称する人は、神や仏がまったく存在しないことを立証できるでしょうか。
少なくとも、仏教に耳を傾け、仏典をひも解いたことがあるでしょうか。

もし、あたなが自らの狭小な体験や憶測をもって無神論を主張するならば、それはあまりにも単純な発想であります。

今、参考までに仏教の概要を説明しますと、
仏教は今から三千年ほど前、インドに出現した釈尊によって説かれました。

釈尊は当時流行していた超現実的な絶対神を立てる宗教を「邪義」として排斥し、自らの修行と思索によって悟り極めた法を五十年間にわたって諄々と説き、

その最後に究極の「実教」たる「法華経」を宣説(せんぜつ)されました。
その教えは、因果の理法を基底として、法界の心理と人間生命の実相を開示するものであり、

衆生(しゅじょう)が「生老病死」の四苦を根本的に解決して真実の「幸福境界」にいたることを目的としたものでした。

そして、「法華経」に「予証」されたとおりに末法の御本仏が日本に日蓮大聖人として出現されたのです。

日蓮大聖人は、末法万年の衆生の苦しみを除き、幸せを与えるために、心血を注いで多くの教えを遺すとともに、

一切衆生(いっさいしゅじょう)成仏の法体として、「戒壇のご本尊」を図顕(ずけん)されました。

この大聖人の仏法は、経文に照らし合わせ(文証)、因果律や現実の道理に照らし(理証)、実際に信仰した結果を見ても(現証)、
一点の曇りもないもっとも正しい教えであることが立証できるのです。

もしあなたが、仏の悟りや御本尊の功徳力を信じられないというならば、謙虚に仏法の教えを乞い、自ら仏道を求めるべきでありましょう。