偽善的な宗教家

※正しい宗教と信仰
・現実世界をさげすみ、偽善的態度をとる宗教者がきらいだ。

宗教家と言われる人の中には、表面はいかにも聖職者らしく、俗界を超越した「仙人」か「生き仏」のように振る舞い、世俗を見下した態度を取る人がいます。

とくにキリスト経や戒律を重んずる宗教、新興宗教の教祖と称する人にこの傾向が強いようです。

しかし、本当にこのに生きる身で「世間を超越する」ことなどできるわけがありません。

それこそ「霞(かすみ)を食って生きる」ことなどできるわけがないのですから、

もし世俗を超越したように振舞ったり、現実世界をさげすむ宗教家がいたならば、その人はあきらかに偽善者であり、人々を欺いています。

釈迦が説いた涅槃(ねはん)経には、末代の僧侶について、
「持立(じりつ)に似像(じぞう)して、
少し経を読誦(どくじゅ)し飲食(おんじき)を貪嗜(とんし)して、
その身を長養(ちょうよう)し、袈裟(けさ)を著(ちゃく)すといえども、
なお猟師(りょうし)の細めに見てしずかに行くが如く、
猫のネズミを伺うが如し」

と説かれています。

この意味は、表面は戒律を持(たも)ち少々の「経」を読んでいるが、内心は飲食をむさぼり、わが身だけを案じていることは、

あたかも猟師が獲物を狙って徐行し、猫がネズミをうかがっているようなものであるというのです。

また一方においては、表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、「商売人」になりきっている宗教家もいます。

この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと、民衆救済などまったく眼中になく、
ただ「欲心」のみが旺盛な「葬式法事執行業」に堕しているのです。
「邪宗」の宗教家の多くがこの姿をしています。

これらの姿を見れば、宗教家をきらうのも当然であろうと思います。

しかし、宗教家の中には堕落している者もいれば、「正法」を護持し、清潔高邁(せいけつこうまい)な人格と慈愛を有する人もいます。

一般の人でもどうように、周囲の信頼と尊敬を集める人とそうでない人がいます。
この違いは何に起因するのでしょうか。

日蓮大聖人は、
「法妙なるがゆえに人貴(にんたっと)し、人貴きがゆえに所尊(たっと)し」

とおおせられ、人の尊卑(そんぴ)は受持するところの「法」の正邪に分かれると説かれています。

はじめは正しい心を持った人間でも、信ずるところの法が邪悪であれば、人間性も必ず濁ってしまいます。

ですから、もしあなたが偽善的な宗教家を忌み嫌うならば、その元凶である「邪教・悪法」を恐れなければならないのです。