宗教は思考をマヒさせるのではないか

※正しい宗教と信仰
・宗教は思考をマヒさせ、人間を無知にするのではないか。

宗教を信ずると、その宗教に没頭するあまり冷静な思考能力や批判力、判断力がマヒして自分なりの理性をたもてなくなるのではないか・・という危惧を持つ人がいます。

たしかに、なんらの教義をもたない低級な新興宗教をはじめ、数多くの宗教はたんに忘我の境地や、
あきらめることのみを教え、人間の思考能力をマヒさせています。

ここに邪な宗教の恐ろしさがあるのです。

しかし、正しい因果の道理を説く仏教、なかでも「法華経」の教えにおいては、

「聞思修(もんししゅう)の三慧(さんね)」といって、仏道を成就するためには正法をよく聞き、思惟(しゆい)し、

修行しなければならない、と説いています。
日蓮大聖人が、
「行学の二道をはげみ候(そうろう)べし。行学絶えなば、仏法あるべからず」

と教示されるように、正しい教えにのっとり、修行と研学によって仏法の精神を求めることの大切さを説かれています。

また「法華経」をたもつ者の功徳の姿を示して、
「日蓮等の類(たぐい)、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、明鏡(みょうきょう)に万像を浮かぶるが如く、知見するなり。
この明鏡とは、法華経なり。」

と説かれています。
すなわち、正しい仏法を信ずることによって、生命の本源が活動し、物事を正しく知見できるというのです。

反対に間違った宗教を信ずる者や、正しい仏法を持たない者は迷える心、

煩悩の生命から者を見、考えているため、すべてを正しく見ることが出来ないのです。

まさに「本心」を失っているようなものです。
これについて、大聖人は、
「本心というは、法華経の信心のことなり。
失(しつ)と申すは謗法(ほうぼう)の人にすかされて、法華経を捨つる心を出来(しゅったい)するをいうなり。」

と説かれています。
ここでいう本心とは、世間的な迷いの凡智(ぼんち)ではなく、本仏・本法によってもたらされる仏智であり、
人生においてもっとも大切な真実の幸福を確立する仏界の心を指しているのです。

ですから、「真実の仏法」とは、本心たつ智慧の眼を開かせ、正しい人生を歩ませるための英知を、生命の根源から涌現(ゆげん)させるものであることを知るべきでしょう。