今が良ければ良いと考えてる人

※正しい宗教と信仰
・今が楽しければそれでよいではないか

「今が楽しければ」という言葉の響きには、まったく将来のことを考えず、
苦しみをさけて、今の楽しみばかりを追い求めるというニュアンスが感じられます。
 

安易に目の前の快楽のみを求める生き方は、苦労を続けながらも真剣に生きている人たちに比べて、
あまりにも人間として分別のない、しかも後に必ず苦しみと後悔を伴う生き方ではないかと思います。

 
だからといって、人間は若いときには何がなんでも苦労ばかりをして、

楽しみなど求めてはいけない、というのではありません。
 

青年の時代こそ、人生を真に楽しんで生きていくための基盤を、しっかりと築き上げるときであります。
 

「楽しみ」というものの本質について、仏教では、五官から起こる欲望を五識(ごしき)によって満たし、
意識(心)に心地良く感ずることであると明かしています。

五官とは、眼(視官)、耳(聴官)、鼻(臭官)、口(味官)、皮膚(触官)を指します。


すなわち、眼にあざやかな色形を見る楽しみ、耳にここちよい音や響きを聞く楽しみ、鼻に香りのよいものを嗅ぐ楽しみ、
口の中の舌においしいものを味わう楽しみ、皮膚に心地良いものが触れる楽しみ、

を欲するところを五欲といい、五官によって判断することを五識といいます。

要するに、人間の楽しみのほとんどは、この五欲の一つひとつが満たされるか、
そのいくつかが同時に満たされるかの度合いに応じて起こる情感であることがわかると思います。

したがって、五欲そのものは、決して悪いものではありません。

しかし、そこに人間の煩悩(貪瞋痴(とん・じん・ち))が働きかけたとき、初めて五欲は無謀性を発揮し、

欲望の暴走となって表れたり、こころのままに満たされない不満がつのって怒りを感じたり、


落胆のあまり自暴自棄になったりして、自分や社会を破壊してしまうことにもなりかねないのです。
 
五欲とは、ちょうど火のようなものだと言えます。
火、そのものは悪でも善でもありませんが、私たちの使い方いかんによっては、

生活に欠かせない便利なものにもなる反面、

不始末などがあればすべてのものを一瞬のうちに灰燼(かいじん)にしてしまう、ということにたとえられるでしょう。

いわば、一時の快楽を飽きることなく求める者は、煩悩の働きがそれだけ旺盛だともいえるでしょう。

その旺盛な煩悩の猛火を、そのまま自分の将来と幸福と社会に役立つ有益な火に転換させるところに、
正しい宗教と信仰の持つ大きな意義があるのです。

正しいご本尊と繋がることで、正しい智恵が生まれます。

そして、起こりうる悩み苦しみや問題は、自己が過去世や現世から積み重ねてきたもの。

なぜそんなことが起こるのか、出会うのか。仏様の教えの中にすべての答えがあります。

大なり小なり悪業を積み重ねた出来事、邪宗と関わって積み重ねた害毒、

その中身は人それぞれですが、正しい仏様とつながり、その名の南無妙法蓮華経を唱えない限りその「罪障」は消えません。

五濁悪世のこの世の中では、どれだけ考えても答えは見えてきません。

知るためには、一度、ご本尊を前にして、真実の話を聞くのがよろしいと思います。