利益は人の心の持ちようではないのか

※正しい宗教と信仰
・利益や罰はその人の心の持ち方によるのであって、客観的にあるものではない

一つの結果を利益と見るか、罰とみるとはその人の心や考え方によって決定されるといっても間違いではありません。

「心頭を滅却すれば火もまた涼し。」という言葉がありますが、どこまで心頭を滅却(無念夢想の境地)できるか、
どの程度の加熱を涼しくかんずるかという限界点は個人差があります。

しかし、真っ赤に焼けた鉄に触れても何も感じない人はいません。

また、食事をとらないで一日、二日は我慢できても、十日も二十日も絶食して平常と変わらない人はいません。

これらの事実から見ても、現実の結果や物事の評価は人間の心によって決定されるものですが、心はまた現実の物質世界に支えられていることがわかります。

これらの原理を仏法では「色心不二(しきしんふに)」といって物質や肉体(色)と精神(心)は互いに離れることなく一体であると説いています。

この色心不二の生命に根本的な影響を与えるものが宗教なのです。

日蓮大聖人の教えによると、妙法を信受する者について、
「身はこれ安全にして、心はこれ禅定(ぜんじょう)ならん。」
と仰せられ、
心に禅定を得るばかりでなく、身体も安穏になると説かれています。

また正法を背く者について、経文を引用して、
「人、仏教を壊(やぶ)らばまた孝子(こうし)無く、六親不和(ろくしんふわ)にして天神も助けず、
疾疫悪鬼(しつえきあっき)日(ひび)に来たりて侵害し、
災怪首尾(さいけしゅび)し、連禍縦横(れんかじゅうおう)し、
死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。
もし、出でて人とならば兵奴(ひょうぬ)の果報ならん。」

(正法を信ぜず、信仰を破る者は福徳が尽きて、孝養心のある子供に恵まれず親子・兄弟・親戚が仲たがいをしていがみあう。

天候不順で作物も実らず、悪病が流行し、悪い思想もはやって生活をおびやかす。

奇怪な事件やわざわいが次々に起こり、私語は苦しみの地獄、飢渇(けかち)の餓鬼、互いに越しあう畜生などの世界に落ちる。

そののち、もし人間に再び生まれてくるならば兵隊として戦場にかり出されたり、奴隷となって酷使されるであろう。)

これらの教えは、因果の道理、すなわち善因を積めば善果を得、悪因には悪果が生じるという当然の姿を記したものであり、

正法を信受する者は代利益が、不信を抱く者には厳然とした罰が、身心両面に現れることを説いているのです。

真実の幸福と安穏の境界は、正しい仏法をいかに余念なく信受し、行じるかにかかっていることを知るべきでしょう。