信仰に年齢は関係ありません

※正しい宗教と信仰
・信仰は老人がするものではないのか

「信仰は年寄りがしていればよい」という意見には、信仰に対する無理解と老人に対する偏見が潜んでいるように思います。

正しい信仰が人生にもたらす作用は様々なものがあります。
そのなかの主なものを挙げてみます。

・正しい教えを信ずることによって、考え方や人生観が広く正しいものになる。
・日々の信仰修行によって身心ともに健全な人間として鍛錬される。
・精進心(しょうじんしん)、すなわちコツコツとたゆまぬ努力を積み重ねる心が培われる。
・敬虔(けいけん)な心、感謝の心、思いやりの心が養われる。
・日常生活が信仰の功徳力(くどくりき)によって仏天に加護される。

このように人生に大きな意義を持つ信仰が、若い人と無縁であるというのは、まったく的外れな意見です。

むしろ、「鉄は熱いうちに鍛えよ」という言葉どおりに、人生の基礎となり土台を造る若いときにこそ正しい宗教を信仰し修練を積むべきなのです。

若いときに目先の欲得や表面的な楽しみ流されることなく、信仰を根本とするしっかりした人生観と人間性を養うことが将来の大きな力になるのです。

また、本人がいかにまじめな努力家でも、いつ不慮の災難に巻き込まれるかわかりません。

一瞬の事故によって一生を台無しにするような事件がいたるところで起きていることを考えると、

やはり仏天の大きな力に日々守られることも、若い人が充実した生活を築くための大切な要件といえます。

たしかに、低級な思想や迷信に走る宗教。
あるいは形骸化した既成宗教の姿に対して、若い人だけでなくすべての人々が失望し、むしろそれらを忌避(きひ)しているのが現実です。

しかし、真実の生きた宗教は、老若男女、人種などの差別なく、すべての人に生きる力を与え、何ものにも崩れない安穏にして自由な境界を確立させるところにあります。

また、道を志すことに早いということはありません。

青年・壮年・熟年を問わず、正法に帰依することは幸福の絶対条件ですが、
健全な苗木が大木・名木に成長していくように、伸び行く青年時代に信仰に励むならば、
それだけで人生の大きな力となり、強固ないしずえとなるのです。

現在、日蓮正宗には多くの青年が自己の確立と社会平和のために、情熱をもって信心修行に励んでいます。