知られてない仏様との関係。

お疲れ様です。今夜はかなり長文です。♪
花金の夜、皆さん楽しくすごされますか?この時期、いろいろなところでライトアップが楽しめますね。お城のライトアップとかけっこう好きですね。お寺もやっておりますよね。
絵ズラとしては綺麗なので自分はけっこう好きですけど、皆さんは勘違いしている人が多いですが、日本に多くあるお寺に置いてある仏の像など、大仏など、それらは建造物であり拝む対象のものではありません。「方便」の教えの偶像でもあるし。
識別的にいうとアート作品です。
歴代のどなたかが魂込めて素敵な作品を作ってそれはそれはよく出来上がっているでしょう。
しかし、仏画でもいえますが、美術館にそれらがあったりして、素敵だねー、よく出来てるって見て回っても、拝むひとはそういない。それと同じこと、きちんとした拝むべき仏のご本尊は日蓮正宗に伝えられています。
そして、数多くある他宝仏や菩薩等を拝まないことと、ないがしろするということはまた違うことなのです。なぜならスジが違うからです。
多くの菩薩・諸天善神達は法華経と出会いその奥深さに感嘆して、その法華経を学ぶ行者を守る契約を、はるか昔に結びました。
そして、お題目である南妙法蓮華経は法華経の真髄でもあるし、善神達の威光倍増の効力もあるのです。個人の背負っている罪障消滅の力ももちろんありますが。
この関係性が正しい位置関係であり、普通の人はようは・・たまに困ったとき「神様、力かしてー、仏様なんとかしてー」と言っているようなものです。
身に降りかかる予期せぬことは、すべて過去からの積み重ねであるし。それらを何とかするには、正しき仏法を学び、お題目を唱えるしかない。
人は、本当にこまったときにしか大切なものに気づかないし、人それぞれにそのタイミングや「時」というものがありますから難しいですけど、命はずっと繋がっております。
この肉体が終わっても、また次の世も自分は生きていくことになります。
しかし、正しき終わり方や、正しき生き方をしていかないと学んでいかないと結局次の世は大変なことになってしまします。
隣の庭はよく見えて、他の人の輝きに憧れたり、嫉妬したり、しますが、その人が正しき生き方を学んでいるかは・・怪しいものです。
その輝きは過去からの貯金のようなものであることも多い。
自分の過去・現在・未来をよくよく考え、そうすると、正しく家族・ご先祖ためにはどうしたらいいか・・ということも考えられるのではないかと思います。
広くいうとそれが世の中のためには、ということにもなります。