批判顕正の部


日蓮大聖人ご金言集より抜粋、批判顕正の部2

いま、念仏(南無阿弥陀仏)や、邪宗の教えが残っているのは、
「法然(ほうねん)」の「選択(せんちゃく)集」に依(よ)るなり。

悲しいかな長い間、数百万の人、魔縁(まえん)にとろかされて多くの人が「正しい仏教」に迷えり。

謗(ぼう)を好んで正(しょう)を忘るる。

善神、怒りを成さざらんや。

円(純円、真に正しい心)を捨てて、
偏(へん)(邪な心、簡単な道)を好む。

悪鬼、頼り得ざらんや。
(その心につけ込んで、悪鬼は知らずに入り込み、人の心を壊していく)


釈尊説法は、先に権経(ごんきょう)を説いて次第に真実の実経へ説いていきましたが、

「どんらん」、「どうしゃく」、「善導(ぜんどう)」らは先の権経に囚われて、後の実経を捨てて仏教の底を探りませんでした。

なかんずく、法然の流れをくむ者達でしたが、仏教の源(みなもと)を知ろうとするものではありませんでした。


「捨閉閣抛」の字を置いて、一切衆生(すべての人)の心を犯した者たちです。


あるものが問いました、念仏者は無限地獄に落ちると言われましたが、その理由はなぜでしょうか。

すると答えました、大きな理由は法然の選択集によっていることであると。

仏の随他意(ずいたい)の教えである方便をねじ曲げ、本意の随自意(ずいじい)と名付けて、

他の教えを捨てよ、閉じよ、閣(さしお)けよ、抛(なげう)てよ、うながし。

国中の無知の人々は、大風に草木がしたがうが如く、方便の教えで皆を止まらせ、真実の教えにて随喜させることなく、
皆、ともどもに無限地獄に落ちていくわけである。

そもそも、法然が仏の教えを説くに必要な、純円の機、純円の教、純円の国を知らなかった。
その失(とが)も多し。