新池御書


※御書の部分より抜粋
・新池御書 パート1
うれしきかな末法流布に生まれ会えるわれ等。
かなしきかな、今もこの経を信じぜざる人々。
 
そもそも人界に「生」を受ける者、誰もが無常を免(まのが)れん。
であるなら、後世に向けての「勤め」を果たさざらんや。
 
つらつら世間の体(てい)を観(ろん)ずれば、人はみな口々に「経」を信じ、経巻を持つといえども、
「法華経の心」に背いている間は、「悪道」を免(まのが)れ難(がた)し。
 
たとえば、人にみな「五臓」あり。
一臓でも損ずれば、その臓より病(やまい)発して他の臓を破り、終に命を失うがごとし。
 
この経(法華経)に会い奉れば、衆罪(いままでの様々な罪)は霜露(そうろ)の如くに消えがたし。
 
しかしながら、「法華経」の心に背きぬれば、十方(じゅっぽう)の仏(あらゆる世界の仏)の命を失う罪のごとくなり。
 
この「法」の掟(おきて)に背く者を「謗法(ほうぼう)(法をそしる者)」と申すなり。
 
 
地獄おそるべし。「炎」を「家」となす。
「餓鬼(がき)」、悲しむべし、飢渇(けかち)に飢えて「子」を食らう。
「修羅」は「闘諍(とうじょう)(争い・いさかう)」なり。
「畜生」は互いに殺しあう。
 
紅蓮(ぐれん)地獄と申すは、紅(くれない)の蓮(はちす)と読む。
それは、「寒」に詰められてちぢこむなか、背中が割れて肉が出てくる様、紅の蓮に似たるがなり。
 
かかる「悪所」にゆけば、王位将軍も物にならず、いち「極卒」となり猿のように回されるなり。
 
地獄とは、別世にあらずや。
今生の表れ、今生の延長なり。
 
法華経を知れる僧を「不思議の志」にて一度でも供養したなら、悪道に行くべからず。
 
その功徳をば、仏の知恵でも知りがたし。
 
この経の行者を一度たりと供養(助ける)功徳は、釈迦仏を無量の宝を尽くして供養せる功徳にも優れたり、と仏は説かれ候。
 
この経(ご本尊)に会い奉れば、よろこび身にあまり、左右の眼に涙を浮かべて仏の御恩を報じ尽くしがたし。
 
いよいよ、はげませ給うべし。
修行、御供養等、おこたることなかれ。
 
皆、この経を信じ始める時は、信心あるようにみえるが、中程は(はじめのうちや進んでいく過程において)、信心弱く、
 
時に悪知識に揺さぶられ、たぼらかされ、僧を供養することもせず、他に自慢して我見・悪見をひけらかす。
これ恐るべし、恐るべし。

地獄に落ちて炎にむせぶ時は、願わくば今度人間に生まれてきたときは諸事をさしおいて(もろもろの欲を満たすことはさしおいて)、
 
三宝(仏・法・僧)を供養し、後世菩提を助からんと(後世に成仏しますようにと)願えども、
 
たまたま人間に生まれてきたときは、名聞名利(みょうもんみょうり)の風は激しく(自分の欲と世間の波は激しく)、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。
 
無益の事には財宝を尽くすに惜しからず(ろくでもない事にはお金を使うというのに)、

「仏・法・僧」に少しの供養をすることを惜しむこと、これ、ただ事にあらず。
 
このうえ、この国は謗法(ほうぼう)の国なれば、
 
守護の「善神」は法味(ほうみ)に飢えて(国に正しき法が広まっていない・求める者もいないことを嘆いて)、「社(やしろ)」を去り天に昇れば、
 
やしろ(神社)は、悪鬼が入り代わりて多くの人を「悪道」に導く。
(真理の道を知らない者が住み着く場所に立ち寄れば、その者も影響を受けて迷いの道を歩いてしまう)
 
仏は化導を止めて寂光土に帰り給えば、堂塔寺社は魔縁の住み家となりぬ。
 
これ、私(日蓮)の言葉にあらず、経文にこれあり。習うべし。
 
諸仏も、諸神も「謗法の者・心けがれたる者」の供養をば全く受け取り給わず。
 
「心けがれたる者」と申すは「法華経を持たざる者」のことなり。
 
謗法の者は、いかなる智者・聖人であろうとも無間(むけん)地獄をのがれることは出来ない。
 
また、その者に近づくべからず。
与同罪(よどうざい)・悪知識、恐るべし恐るべし。
 
智慧にあっても、「正智」と「邪智」があり。
賢人といえども、「邪義」にはしたがうべからず。
 
高貴な「僧」なれども「邪法」には依るべからず。
 
卑しき者なりといえども、この経(法華経)のいわれを知りたあらん者あらば、生身の如来のごとくに礼拝・供養すべし。
これ、経文なり。
 
しかれども、今は邪宗・邪義が横行せし時。
これを知らずして、間違った者を供養して後世(ごせ)を助からんと願うは、はかなし、はかなし。