如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう) パート1
・通解
なんと哀れなことであろうか、今、日本国中の人々は、
日蓮大聖人とその弟子檀那達が三類の強敵に責められて大苦にあっているありさまを見て、喜んで笑っているが、
「昨日は人の上、今日は我が身の上」、のことわざのとおりである。
日蓮大聖人やその弟子檀那等は、朝日が射せば消えてします霜露(そうろ)のごときはかない一生を法華経に捧げ、
即身成仏の仏果(ぶっか)を得ることができる。
そして、寂光土(じゃっこうど)に住んで自受法楽(じじゅほうらく)しているときに、
汝(なんじ)ら謗法(ほうぼう)の者達は無間地獄(むげんじごく)の底に沈んで大苦悩を受けるのである。
その時、我らは、その姿をどれほどふびんに、哀れに思うであろう。
そして、汝らは、我らをどれほどうらやましく思うであろうか。
一生は、つかの間に過ぎてしまうものである。
ゆえに、どんな強敵(ごうてき)が重なって襲ってきても、決して恐れおののいて退く心を起こしてはならない。
・三類の強敵-正法の行者を迫害する三種類の敵。
俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)(在家の謗法者)、
道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)(邪宗の出家者)、
せん聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)(聖者を装った邪宗の徒)のこと。
・仏果-正しい仏道修行に励むことによって得られる、成仏という結果。
・寂光の本土-寂光土、寂光の宝刹(ほうせつ)ともいう。
仏の住する清浄な国土のこと。
正法を受持して成仏を遂げた行者の住処は、いかなる場所であっても寂光土となる。
・自受法楽-「自ら法楽を受く」と読む。
法楽は欲楽(よくらく)に対する語で、妙法を受持することにより、遊戯自在(ゆうげじざい)に幸福境涯を得ること。
・阿鼻大城(あびだいじょう)-阿鼻地獄のこと。
阿鼻とは梵語(ぼんご)で、「無間」と訳す。
八大地獄の中で、もっとも重い苦を受ける地獄。
如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう) パート2
・解説
本は、日蓮大聖人が佐渡御流罪中の文永十年五月、
佐渡の一(いち)の谷(さわ)にて御述作され、
弟子檀那一同へ与えられた御所です。
大聖人が佐渡へ御流罪中、弟子達に対する迫害も激しくなり、
住処を追放されたり、牢に入れられたり等の弾圧があり、
信心の浅い人々は動揺し、
退転していく人も少なくありませんでした。
こうした状況下でしたためられた本書では、
末法における末法弘通(まっぽうぐづう)に留難(るなん)が多きことを経文から明かされ、真に如説修行の行者は、
日蓮大聖人並びにその弟子檀那の他にいないことを説かれています。
そして、如説修行の行者であればこそ、三類の強敵が競い大難が重なるのであって、いかなる難があろうとも、
絶対に退転したり恐れたりしてはならないと、
厳しく戒められ、命の続くかぎり南無妙法蓮華経と唱えぬくよう教えられているのです。
「哀れなるかな今、日本国の万人・・」
当時、邪法邪師にたぼらかされた日本国中の人々は、
大聖人やその弟子檀那が三類の強敵に責められて苦しんでいるのをみて、
喜んで笑っていましたが、大聖人はそのような姿はまことに愚(おろ)かしいことであると逆に哀れんでおられます。
というのも、大聖人ならびに弟子檀那が、わずかの一生を法華経の修行に捧げて、即身成仏して寂光土(じゃっこうど)に居住(きょじゅう)し、
妙法蓮華経の功徳を受けている時、彼ら謗法(ほうぼうしゃ)は、
無量劫(むりょうこう)の間、
無間地獄の底に沈み大苦脳をうけることが確定しているからです。
そうなったとき、彼らはどれだけ後悔するでありましょうか。
後悔しても、どうすることもできないのでありますから、じつにあわれなことです。
大聖人の弟子檀那となりながら、一生というわずかな期間さえも、
その哀れなる謗法者が加えてくる難に耐えられず、
恐れおののき、退く心を起こすとしたら、これまた愚かなことといわねばなりません。
大謗法団体と成り果てた創価学会や顕正会が、本師たる御法主上人を誹謗し、宗門を攻撃するといった謗法行為を続けています。
真の仏法に対して誹謗をなす者は必ず無間地獄に堕ちるのですから、
その恐ろしさを知る者は、逆に謗法者の目を覚まさせるべく、
よりいっそう、果敢に折伏していくできであります。