一般的な幸福と、真実の幸福

※正しい宗教と信仰
・宗教を持たなくても幸福な人はたくさんいるではないか。

幸福という概念は、人によって色々とらえ方があるようです。

一般には健康とか、家庭円満とか、金銭的に恵まれているといったように、
いわゆる「運がよく」幸せなことや、心が満ち足りて楽しい状態にあることを指して「幸福」というようです。

しかし、実際に今、健康に、家庭円満に、そして裕福に見える人たちが、必ずしもそれらに満足して楽しく生活しているとはいえない場合があるのではないでしょうか。

むしろ恵まれた生活に生ずる特有の倦怠や不平不満、欲望のぶつかりあいによって人間不信や争いなど、
様々な不幸に苦しんでいるという例も少なからずあります。

まれに、現在の恵まれた生活に満足している人があったとしても、「人生の無常」からは、そのような人もけっして逃れることはできません。

「人生の無常」とは、生あるものは死に、若きものは老い、健やかなる物も患う、など、
一切のものは「消滅」して「変化」してしばらくも同じ姿を保つことが出来ない、との意味です。

仏典には、カピラ城の太子として、優れた身体を持ち、あらゆる栄華につつまれて暮らしていた「釈尊」が、

そのすべてを捨てて出家し、様々な修行のすえ、三十歳の時、菩提樹の下で、
ついに人生無常の「苦」を真に解決する「法」を悟られたと説かれています。

したがって、この世に人生無常の「苦」を真に解決して、「消滅・変化」に惑わされることなく、いかなる幸せをも自在に顕現(けんげん)していく道は、「正しい仏法」に帰依すること意外にないのです。

この「正しい仏法」というのもキモなのです。

世の中には、数多くの人を惑わす「教え」があり。
「仏法」もしくは「仏教」と歌いながらも間違った教え、人を不幸に招き入れる「邪宗・邪儀」のところも多く存在するのです。
残念ながら、正しい教えと、伝えているところは一つだけなのです。
つまりは、本当の幸せにたどり着ける教えは、「末法の仏様」として出現された「日蓮大聖人」の教えを違えることなく伝え次いでいる「日蓮正宗」ただひとつだけなのです。

この人生の無常の話を聞いいても、まだあなたは「宗教を持たなくても幸福でいられる」というでしょうか。

それはあたかも「三重の桜(たかどの)の喩(たとえ)」に説かれている「富みて愚かの人」と変わりません。

この意味は、
彼は他の富豪の屋敷が立派な三階建てであるのを見て「自分もそれに勝る建物を建てよう」と思い、すぐさま大工さんを呼んで頼んだのです。

さっそく基礎工事をして、一階を作り始めた大工さんに、不審を感じた「愚かな富豪」は「私は三階だけが欲しいのだ。したの一階・二階はいらないのだ!」と言い張りました。

しかし、大工としては「一階を作らなくては、二階・三階と作ることはでない」と呆れたという話です。

正しい宗教を持たない人の幸福は、この愚かな富豪の考え方と、同じようなものです。

しっかりとした土台の上にある建物は、どのような風にあたっても壊されることがないように、

正しい宗教を人生の基盤とし土台としたときには、いかなる無常の苦しみや不幸という風にも、
けっして壊されることのない幸福を築いていけるのです。