まいらぬ仏に、バツはなし?

※正しい宗教と信仰
・「さわらぬ神にたたりなし」で、宗教に近づかないほうがよいと思うが。

「さわらぬ神にたたりなり」とか「まいらぬ仏にバチは当たらぬ」ということわざは、信仰とかかわりを持たなければ、

利益もバチも受けることはない、との意味ですが、一般には広く何事も近づかなければ無難であるという意味に使われています。

たしかに「間違った宗教」には近づかないほうが無難ですが、こと「正しい仏法」に対しこのような考え方を持つことは誤りです。

釈尊は、
「今この三界は、皆、これ我が有(う)なり。
その中の衆生(しゅじょう)、ことごとく、これ吾(わ)が子なり。」

と説かれ、世の中のすべては仏の所有するところであり、人々はすべて仏の子供であるといわれています。

いいかえると、仏法とは文字通り仏が悟られた「真理の法則」ということであり、私たちはだれ一人としてこの「心理の法則」から逃れることはできません。

仏教では宇宙全体を指して「法界(ほうかい)」といいますが、日蓮大聖人は、

「法界一法として漏(も)る事無し」
と仰せられ、仏が開悟(かいご)した法は宇宙法界に漏れなくいきわたっていると教えられています。

ですから信仰をもたなければ罰も当たらないというのは、警察署に近づかなければ罰せられることもないということと同じで、

幼稚な理屈であることがわかるでしょう。

もし正しい仏法に近づかなければ、「真実の幸福」をもたらす教えを知ることができないわけですから、

それこそ日々の生活が、仏に背き、法を破る悪業の積み重ねとなっていくのです。

ましてや仏の慈悲は、人を救い善導するところにあり、たたりなどあるわけがありませんし、

罰といっても、親が我が子を導く手段として叱ることと同じで、それも親の愛情の一分であることをしならければなりません。

その意味から考えても、罰が当たるから仏法に近づかないというのは、

親や教師がうるさいからといって、こそこそ逃げ回っている子供と同じことで、およそ健全な人間に祖出すはずはないのです。

いかに自分では信仰に無縁のつもりでいても、この世に生きている人はすべて、

正しい教えに寄らなければ「真の幸福」を得られない存在であり、

また仏の掌(たなごころ)の上で生きていることに違いはないのですから、

自らの人生をより爽快なものとし、充実したものとするため、一日も早く正しい仏法に帰依することが大切なのです。