正しいご先祖供養

※正しい宗教と信仰
・先祖を崇拝することが間違っているのか

先祖を敬い、あがめることは、仏法の教義に照らして、けっして間違いではありません。
むしろ人間としてたいへん立派な行為といえます。

しかし、先祖を「神」としてまつったり、「仏」と呼んで祈願や礼拝の対象とすることは誤りです。

なぜならば先祖といっても、私たちと同じように一人の人間として苦しんだり悩んだり、失敗したりしながら生きた人たちであり、

生前も死後も「悪縁」に依(よ)れば苦を感じ、「善縁」すなわち、正法に依れば安楽の果報を受ける「凡夫」であることにかわりはないからなのです。

いいかえれば、人間は死ぬことによって正しい悟りが得られるわけではありませんし、

子孫を守ったり、苦悩から救ったりできるわけでもないということです。

世間では先祖や故人を「仏」と呼ぶ場合がありますが、これは仏教の精神から見ても正しい用法ではありません。

「仏」とは、仏陀とも如来とも言い、この世の一切の真実の相(すがた)と真理を一分もくもりなく悟り極めた「覚者(かくしゃ)」という意味です。

仏教の経典には、阿弥陀仏、や薬師仏、大日如来などたくさんの仏が説かれていますが、これらの仏について、「法華経」には、
「この大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。
十方三世(じゅっぽうさんぜ)の諸仏の眼目(がんもく)なり。
三世の諸(もろもろ)の如来を出生する種なり。」

と説かれ、日蓮大聖人も、
「三世の諸仏も、妙法蓮華経の五字をもって仏に成りたまいしなり。」
と仰せられているように、多くの仏はすべて大乗経典たる「妙法蓮華経」という本法を種として仏と成ることができたのです。

この原理は、私たちや先祖が何によって「真に救われるか」ということをはっきりと示しています。

すなわち、本当に先祖を敬い、先祖の恩に報いる気持ちがあるならば、生者、死者をともに根本から成仏せしめる本仏・本法に従って正しく回向供養しなければなりません。

また先祖の意思を考えてみますと、先祖の多くはわが子の繁栄と子孫の幸せを願って苦労されたことでしょう。

急病の子供を背負って医者を探し求めたこともあったでしょうし、

妻子を助けるために我が身を犠牲にされた方もいたことと思います。

このように一家の繁栄と幸福を願う先祖がもし、自分の子孫の一人が、真実の仏法によって先祖を回向し、

自らも幸せになるために信仰を始めたことを知ったならば、
家代々の宗教を改めたことを悲しむどころか、
「宿願(しゅくがん)ここに成れり!」
と大いに喜ぶはずです。

先祖を救う、という尊い真心を正しく活かすためには、
先祖の写真や位牌を拝むのではなく、
三世諸仏の本種である「南無妙法蓮華経」の御本尊を安置し、
独経・唱題して回向供養することがもっとも大切なのです。

大聖人は、
「父母(ふも)に御孝養(こうよう)の意(こころ)あらん人々は、法華経を贈りたもうべし。
定めて過去の聖霊(しょうりょう)もたちまちに、六道の垢穢(くえ)を離れて霊山浄土(りょうぜんじょうど)へ御参りそうらん。」
と妙法によって先祖を供養するよう教えられています。