仏教の真髄は法華経です。

※正しい宗教と信仰
・宗派はわかれているが到達する目的は同じではないか

仏教は、釈尊によって三世の「因果律」という正当な原理を根本として、人間の生命とその救済が説かれたものです。

しかも同じ仏教のなかでも、小乗経は劣応身(れっとうじん)という仏を教主として戒律を説き、

一切の煩悩を談じつくした阿羅漢(あらかん)という聖者になることを説きます。

これに対して大乗経の中でも、華厳経(けごんきょう)を所依とする華厳宗、

法等部(ほうどうぶ)から発した真言宗、

般若部(はんにゃぶ)の郷里をもとにした三論宗、

これらの経典がそれぞれ違うわけですから当然、教義や修行、目的、教主がすべて異なっています。

まして、「唯有一仏乗(ゆいういちぶつじょう)」といわれる「法華経」は今までの四十二年間の教えとは比較にならない深遠な教理、偉大な仏の利益、
そして、真実の仏心が説きあらされたものです。

その目的も、それまでの経教では、三乗(さんじょう)すなわり声聞(しょうもん)を目的とする者、
声聞とは仏様の声を聞く者、聴こうとする者、

縁覚(えんがく)を目的とする者、
縁覚とは、ほんの少しの悟りを得た者、
アーティストや、学者、など。

菩薩を目的とする者をそれぞれ認めて、

それに見合った教義と修行を別々に説いていたのですが、「法華経」に至ると、それまでの三乗を目的とする教えは「方便」であり「仮り」のものなので、

信じてはならないと釈尊自らが戒められ、一仏乗(いちぶつじょう)すなわちすべての人が仏の境界(きょうがい)に至ることこそ真実の身区的であると教示されました。

このように本尊も、教義も目的もまったく異なっているのです。

もし、あなたが「宗教」という大きな意味で、目的が「救済」ということだから、どれでも同じだというならが、
それはあまりに大雑把な考え方だというべきでしょう。

あたかも、学校はどこも教育を目的にしていることは同じだからといって、
小学校でも大学でも、自動車学校でも料理学校でも通えば同じだということと同じです。

宗教の選択が人間の幸・不幸にかかわる大事であることを知れば知るほど、このような無責任な判断は当を得たものではないことがわかるでしょう。