信仰をしていても悪い人もいるではないか

※正しい宗教と信仰
・信仰をしていても悪い人がいるのではないか

信仰をしてない人は、よく
「信仰をしていても、こんなに悪い人がいるから信仰をする気にならない」
といいます。

「悪い人」といっても、
悪い考えに染まった人、
悪い癖(くせ)をもった人、
自分で気づかずに悪業を犯す人、などさまざまです。

釈尊は、現代の世相を「五濁悪世(ごじょくあくせ)」と予言しました。
五濁とは、
1、劫濁(こうじょく)(社会・環境に悪い現象が起きる)
2、煩悩濁(ぼんのうじょく)(いかりやむさぼりなどの悪心にとらわれた本能的な迷い)
3、衆生濁(しゅじょうじょく)(人間そのもののニゴリ)
4、見濁(けんじょく)(思想や考えの乱れ)
5、命濁(みょうじょく)(生命自体のにごり、人命軽視など)
を言います。

たしかに現代社会は、科学技術の発展とは逆に人間性は歪曲され、貧困になっていますし、社会全体の混迷と汚染はますます深刻になっています。

そのようななかで、健全な人生を築くためには発心して信仰の道に入っても、はじめのうちは過去からの宿習(しゅくじゅう)や因縁によって、
また縁に触れて悪心を起こしたり、他人に迷惑をかける人もいるかもしれません。

しかし、正しい教えによって信仰を実践していくうちに、悪い性(さが)を断ち切り、煩悩を浄化し、六根清浄(ろっこんしょうじょう)になっていくのです。

日蓮大聖人は、信心の功徳について、
「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今、日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり。」
と仰せです。

すなわち、正しい教えである南無妙法蓮華経を信じ唱える者は、必ず六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のすべてが清浄な働きになると教えているのです。

信仰の正当性をしるために大切なことは、それを信ずる人の姿をみて判断するのではなく、

信仰の対象である本尊や教義の正邪をもってその価値を決しなければならないのです。

釈尊は、
「法に依(よ)って人に依らざれ、義(ぎ)に依って語(ご)に依らざれ。」
と説いています。

信仰をしている人を、部分的な表面や風評をもって批判することはだれにもできるでしょう。

しかし、批判者にはそれ以上に得るものは何もないのです。
むしろ、正法の信者を誹謗するという大きな罪を作っているかもしれません。

一方、正しい信仰を根本として、過去の悪業や弱い自分と戦いながら仏道に精進している人は、

当初は恥ずかしい思いをするかもしれませんが、将来必ず目標に達し、真実の幸福境界を築き、周囲の信頼と尊敬を集めることが出来るのです。